こんにちは、たいせいです。

「教育格差」という本を読んだので、ご紹介します。

詳しい概要はこちらの記事を読んで欲しいのですが、

簡単にいうと、「本人には選ぶことのできない生まれた環境によって、社会から隔離される国」=「日本」だという目をそむけたくなるような事実を突き付けられます。

本の著者は記事の中で、

「生まれ」育った家庭と居住地域によって、教育環境として相対的な有利さ・不利さが地層のように細かく折り重なっているのが教育格差社会「日本」

本人が変えることのできない初期条件(「生まれ」)である、出身家庭の社会経済的地位(Socioeconomic status, 「SES」と省略)と出身地域によって、わたしたちはそれぞれ似た人たちと一緒に育ってきているのだ。

「日本にはこれまでずっと教育格差が存在し、緩やかな身分社会である」

「生まれた環境」による学力差を縮小できない〈教育格差社会〉日本

といった表現をしています。

そして、この本を読んだ僕の主張は「教員は青年海外協力隊を経験すべき」というものです。

教員が青年海外協力隊を経験すべき理由

なぜなら、教員は比較的高い社会経済的地位(SES)の出身だからです。

本の中で著者は「教師が教育格差の再生産に寄与している」可能性があると、以下のように警鐘を鳴らしています。

比較的高SES層出身の(多くの)教師は、公立小中学校に通ったとしても、似たSESの、習い事や塾にも積極的に参加するような学習意欲を持つ同級生に囲まれて育った可能性が高い。

そのまま高ランク・高SESである高校で学び大学まで出た教師からすれば、かつての自分のように一生懸命勉強しない低SESの児童・生徒、それに自分や近所の同級生の親と比べて子育てに専念しているように思えない親が不真面目に見えてもおかしくはない。

教育格差について体系的に学ばなければ、低SESの児童・生徒が日々どのような現実を潜り抜け、その総体として授業に関心を持たないように見えるのか理解できないだろう。

教育格差 ──階層・地域・学歴 (ちくま新書) 松岡亮二

つまり、社会経済的地位(SES)の高い生まれの教師は、低SES出身の子どものことを理解できないばかりか、その子どもの学力が低いのは努力が足りないせいだと考えてしまうわけです。

これは本当に恐ろしいことではないでしょうか?

しかし、私たち人間の脳は、異質な違いしか認識できないというクセがあるので、一見すると教育機会の平等が達成されているように見える日本で、その違いを認識することは難しいのかもしれません。

そこで、途上国で教育活動をしてみるといいのではないか?というのが僕の提案です。

青年海外協力隊に限らず、スタディツアーでもいいと思いますが、とにかく「生まれた環境によって、ある程度人生の方向性が決まってしまうという事実」を認識することが大事だと思います。

そうでなければ、善意のもとに行われる教育が、むしろ救いたいはずの子どもたちを苦しめていることに気づけないままの場合もあるわけです。

その教育は本当に子どもたちを幸せにしているのか?

実際、僕自身、「この活動に本当に意味があるのか?むしろ、悪影響を及ぼしているのではないか?」という葛藤の中で、これまで教育活動をしてきました。

特に、「平等」と「自由」、どちらを重視した教育を行うべきか?ということに悩まされています。

低SESの子どもに焦点を当てた教育をしたいとなれば、「平等」を意識することになり、子どもたちの可能性を狭めることもあります。

一方で、子ども一人ひとりの特性や能力に合わせると、「自由」を意識することになり、「平等」どころか能力ごとに子どもたちを分けてしまうことになります。

教育格差はなくならない

なので、ある意味で「平等」と「自由」はトレードオフの関係です。

低SESの子どもの底上げを図れば、子どもたちの「自由」は奪われるし、

子どもの能力を最大限に引き出そうとすれば、教育格差は広がっていきます。

教育格差はなくならないと認識した上で、それでもその格差を縮め、子どもが幸せに生きられる社会にしたいなら、常に自分自身を批判的な目で見続ける必要があると思います。

なんだか重い話になってしまいましたが、とにかく「生まれた環境によって、格差が生じる事実」を踏まえた上で教育活動に関わるのが大切だということです。