【自己紹介】反面元教師

栗野泰成(くりのたいせい)

1990年生まれ。鹿児島県枕崎市出身。

愛知教育大学 中等教育教員養成課程 保健体育専攻 卒業。

小学校常勤講師、青年海外協力隊として活動後、 現在は、会社を経営しています。

幼少期〜

「台風銀座」とも呼ばれることもあるくらい台風の通過頻度が高いこともあったり、全国有数規模のカツオ水揚げ量を誇ったり、JR最南端始発駅である枕崎駅があったりする鹿児島県枕崎市というところで育つ。

僕の全盛期はまさにこの枕崎時代。

中学まで枕崎の学校に通っていたが、中学生までは勉強も運動も割と出来る方で、意外と女の子からモテた記憶があるような。笑

高校時代

そんな完全に調子に乗っていた少年の鼻も、東京大学法学部・医学部を頂点とする学歴社会やプロスポーツの世界という高い壁があることにも全く気づけないくらい低いところで折られてしまう。

高校時代は、全国模試で14位とかになる天才が同じクラスにいて全然住む世界が違うなと感じたり、現在もサッカー日本代表で活躍する大迫勇也選手が小学生までは比較的身近な存在だったにも関わらず、いつのまにか「大迫半端ないって!」状態になっていたりと、

とにかく他人と自分を比較して、自分の取り柄を見失った時期だった。

その時期には家庭の経済状況が良くないこともハッキリと分かった。高校2年生のときには父親が県外に出稼ぎに出て行ったり、母親には大学進学について私立に通わせるお金はないことを言われたりといった感じ。

そこにさらに追い討ちをかけるのは、大学受験の失敗。

そもそも私立の大学は行けないので調べもしなかったし、国立大学もテレビで東京大学が凄いと言っているというくらいしか知らなかったが、

サッカーを全国レベルでやれる環境で、国立大学という基準で先生に相談したときに「筑波大学」を教えてもらった。

しかし、一次試験にあたるセンター試験終了後は定員140名中70位くらいだったにも関わらず、二次試験で全く結果が出せず8点差で受験競争に敗れた。

この瞬間僕は、

「自分は人間として価値がない。」

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そう自覚した。

絶望に打ちひしがれながらも新聞奨学生の制度を知って応募しようとする頃にはもうすでに〆切が過ぎており、経済状況的に新聞奨学金なしでは浪人なんて出来るはずがないと思ったので、センター試験の点数でほぼ合格が決まっている愛知にある大学を後期で受験し進学。

暗黒の大学時代

魂の抜け殻状態で始まった大学での生活は本当に酷いものだった。

学歴主義の考えに完全に染まっていた僕は、内心同級生を見下し、学科ではほとんど友達もできなかった。

そんな腐っていた心の隙間を埋めてくれたのが酒とギャンブルと女。

毎日のように酒を飲み、借りていた奨学金を握りしめてパチンコ屋に向かう日々。

お金が足りなくなれば、学校よりもバイトを優先し、学生ローンを組んでバイクや車を買ったりもした。

浮気がバレて彼女を傷つけたり、よく知らない女の子と遊んだりもした。

でも、全くと言って心が満たされることはなかった。

「生きる価値ねぇな。」

「死にてぇな。」

そんなことばかり考えていた気がする。

自分も父親のような人生を歩むんだ。結局のところ蛙の子は蛙ってこのことだなと思い、自分の生まれた環境のせいにしたのもこの時期。

父親は大学中退したって聞いていたし、そもそも県外に出稼ぎに出たのも父親自身がつくったスナックやパチンコが原因の借金を返すためだし、お金のことで母親と喧嘩して僕と妹はそれを寝てるふりして布団の中で震えながら聞いていた。

小さい頃から母親が言っていた「クソじじい」に僕も結局なるんだ。

そう思うと早く人生を終わらせたかった。

小学校講師時代

そんな大学生活も要領はいいのか、ストレートで卒業はした。

しかし、資格と言えば教員免許くらいしか持っていないので、仕事をしようにも教員以外の仕事は思いつきもしなかった。

そこで小学校で常勤講師として2年生の担任をすることになった。

その学校は部活もやっていたので、サッカー部4年生の顧問もやらせてもらった。

子どもたちはただただ可愛い。

ただ、暗黒時代を過ごしてきた自分には子どもたちの純粋さが眩しすぎた。

自分が担任であることに罪悪感しかなかった。

自分のような人間が子どもたちの将来に少なくとも影響を与えていると考えると恐ろしくて夜もなかなか眠れないので、寝るために毎晩お酒を飲む生活。

僕なりにはがむしゃらに働いて少しでも良いクラス運営ができるように努めたつもりだった。

自分のせいで関係のない子どもたちまで悪影響があるのは許せなかったから。

でも、ある親御さんには我が子がクラスでイジメにあっていて次同じことがあれば僕を訴えると言われる。授業参観では、あんなやつに担任を任して大丈夫なのか?と言われている気がしてくる。事実、クラスの子に「お母さんが先生のこと頼りないって言ってたよぉ。」と言われたこともあった。

その精神状態で教員を続けるのは無理だと感じ、大学のときに居酒屋のおっちゃんから教えてもらった青年海外協力隊に応募することを決意する。

とにかく逃げたかった。

青年海外協力隊時代

なんとか2度目の受験で協力隊に受かり、2014年10月いよいよエチオピアという東アフリカにある国に行くことになる。

エチオピアで1番衝撃を受けたのは、ストリートチルドレンの話。

路上で物乞いをしてくる子どもたちの中には手足がなく、地面を這って声をかけてくる子どももいる。

ただ、毎日同じ光景が広がると感覚がマヒしてきて、次第になんとも思わなくなる。

しかし、ある雨が降っていた日は何か違和感を感じた。

いつも路上にいるはずの手足のない子どもや大人の姿が見えない。

話によると、わざと手足を切り落とされ、どこかから連れてこられている人たちだという。

その方がより恵んでもらえるから、胴元が儲かる。

「こんなことがあっていいのか?」

自分の置かれてきた環境なんて、めちゃくちゃ恵まれた環境だったんだと気付かされた。

そこで自分にできることでエチオピアに貢献することを決めた。

それは僕の場合、スポーツ・体育教育。

サッカーを通じた教育プロジェクトや運動会を実施した。

でも、本当にエチオピアの子どもたちにとって意味のあることなのか活動の最後の最後まで自信を持てなかった。

大学院時代

アカデミックな世界を知れば、本当に子どもたちに良い影響を与えているかどうかを見える化でき、それをもとに活動をより良くしていくことができると考えた。

だから、エチオピアから帰国後、アジア初のスポーツをツールとした国際開発を学べる大学院への進学を決め、そこに在籍した。

コンサル時代

しかし、研究を進めるにつれ、スポーツを通じた社会的な価値を「見える化」することで、より良い活動につながるのではないかと考え始めた。

そこで出会ったのが「社会的インパクト・マネジメント」という考え方だった。

居ても立っても居られず、僕はすぐに社会的インパクト評価や社会的インパクト投資に特化したコンサルティングファームに応募した。

現在、そこに在籍している。

会社経営を通して何をしたいのか?

僕は1度自分の人生を諦めた。

生まれた環境のせいにして。

でも、エチオピアでの経験が僕に生きる意味を与えてくれた。

だから僕は、生まれた環境に関わらず自分の価値観で生きられる環境を整えたい。

人それぞれ幸せの価値基準は違うから。

経済的な理由でやりたいことを諦めたり、他人の幸せの価値観を自分に無理に当てはめて抜け殻のように生きるのはもったいない。

僕は今、会社を経営している。

その会社の名前は「Autonomos」。

ラテン語で「自分の法で生きる」という意味だ。

この名前に恥じないよう、活動を通じて【誰もが自己決定できる】社会にしたい。